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日々是好日 Nichi nichi kore kounichi


日々是好日(にちにちこれこうにち)

Nichi nichi kore kounichi

Nichi nichi kore konichi  is a Chinese-Japanese Zen Buddhist proverb at least 1.100 years old which means "Every day is a good day", or "All days are good days". Some people are troubled by rain but some people are helped by rain. You say "today is a good day" or "today is a bad day" just judging if the day was convenient for you or not. In Zen world there is no bad day. Even though rainy day, even though painful day, every day should be a good day and an important day which makes your life. You should have power to change that hard day to a good day.

Nichi nichi kore konichi  significa "cualquier día es un buen día". Es un verso que ha sido dicho por más de mil años dentro de las escuelas Zen. Hay días soleados y hay días lluviosos. Algunas personas tienen problemas por la lluvia y algunas personas son ayudadas por la lluvia. Tu dices "hoy es buen día" o " hoy es mal día", pero lo dices sólo pensando si hoy ha sido un día conviniente para ti o no. En Zen, no hay mal dia.  Todos los días son buen día. Aunque tengas un día triste o doloroso, tienes que tener fuerza para cambiar ese día a buen día.  Aunque estés en la situación difícil, hay que recibirlo con tranquilidad diciendote "Está bien, hoy es buen día" porque es un día que nunva volverá a venir y es un día importante que forma una parte de tu vida.

日々是好日(にちにちこれこうにち)  雨の日もあれば晴れの日もある。広い世界には雨で困る人もいれば、雨で助かる人もいる。良い日悪い日というのは自分にとって都合が良い日か悪い日かという ことでしかなく、禅の世界では雨の日も晴れの日も楽しい日も辛い日も全てが人生においてかけがいのない日々であり、良い日である。辛い一日を良い日、つま り「好日」に変える力を持とうという意味です。  

 


以下は小林山 達磨寺 「禅語を味わう」より引用です。
http://www.daruma.or.jp/zen/detail.html?zen_id=11

日々是好日(にちにちこれこうにち) この語は中国の唐未から五代にかけて活躍された大禅匠、雲門文偃うんもんぶんえん禅師の言葉です。 たぐい希な、鋭い機峰と、すぐれた禅的力量の持ち主であった禅師は、簡潔な語句を駆使して、自由闊達に禅を説きました。日々是好日は雲門禅師の悟りの境地を表した、最高の言葉であります。毎日いい日が続いてけっこうなことだ、などといった浅い意味ではありません。一般に私達が、今日はよい日だ悪い日だという場合、天気だけでなく、お金が儲かった・損をした、よいことがあった・嫌なことがあったなど、そんなものさしで判断します。しかし、これは優劣・損得・是非にとらわれた考え方です。それではたとえ、ある日幸運が訪ずれても、その後に来る不運に脅えなければなりません。日々是好日とは、そんなこだわり、とらわれをさっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地です。たとえば、嵐の日であろうと、何か大切なものを失った日であろうと、ただひたすら、ありのままに生きれば、全てが好日こうにちなのです。好日の好は好悪こうおの好ではありません。「嵐か、よし、嵐なにするものぞ!」、「失ってしまったか、よし、どうにかこれを改善しよう!」と、積極的に生きる決意 "よし" がこの "好" なのです。禅では、過ぎてしまったことにいつまでもこだわったり、まだ来ぬ明日に期待したりしません。目前の現実が喜びであろうと、悲しみであろうと、ただ今、この一瞬を精一杯に生きる。その一瞬一瞬の積み重ねが一日となれば、それは今までにない、素晴らしい一日となるはずです。

 


以下は臨済禅 公式サイト より引用です。
http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/060601.html

日々是好日(にちにちこれこうにち)  昔、中国の雲門大師が、ある時、お弟子たちに向かって「十五日()(ぜん)は汝に問わず、十五日已後、一句を()()()た れ――これまでのことは尋ねまい。明日からどういう生活をする覚悟か言うてみい」と言って、ずうっと皆の顔を見わたされました。学校を卒業するまでのこと は何も聞かぬ。学校を出て、今日から会社に入るとしたら、どういう決心で働くつもりか。結婚するまでのことは尋ねまい。今日式を挙げて夫婦になったら、明 日からどういう心構えで暮らすつもりか。お互いに言ってみようということにもなりましょう。

ところが大衆は瀬戸物の巾着(きんちゃく)のように、口を固く閉じたまま、うんともすんとも申しません。そこでとうとう雲門大師がしびれを切らして、皆に代わって、そうした場合の覚悟の一句を示されました、「日々(にちにち)()好日(こうにち)」と。
 この言葉は、今日あまりにもよく知られておりますから、充分ご承知だと思います。通俗的にこれを解釈しますと、「毎日おかげさまで、感謝して暮らしております」ということになりますが、もしそんな単純なことでしたら、何も雲門大師を煩わすこともないはずです。
 昔、南禅寺の門前に、泣き婆さんという有名な婆さんがあって、降っても照っても年中泣いてばかりおりました。ある時、南禅寺の方丈さまが、おかしな婆さ んだと思って、「婆さんや、おまえはいつ通ってみても泣いてばかりおるが、何がそう悲しゅうて泣くんや」と尋ねられますと、婆さんは涙をふきふき答えまし た。
 「方丈さま、まあ聞いておくんなされ。私に二人の息子がありましてな、一人は三条で傘屋をしており、一人は五条で雪駄(せった)屋をしています。雨が降ると五条の雪駄が今日は売れんじゃろうと思うとかわいそうで、つい泣けます。天気だと三条の傘がさっぱり売れんじゃろうと思うと、これもかわいそうでまた泣かずにおれません」
 方丈さまがそれを聞かれて、「そりゃ婆さん、おまえ、心の持ち方が悪いわい。雨が降ったら三条の傘が売れて売れて、目のまわるほど忙しいと思ったらうれ しかろうが。天気になったら五条の雪駄が羽が生えて売れると思ったら、これも有り難かろうがな。おまえのように物事をそう悪いほうにばかりとってはいか ぬ」と言うて聞かされますと、婆さんもなるほどと合点し、それから毎日、喜んで笑って暮らすようになったと申します。
 このように世の中は万事、心の持ちよう一つで、「日々是れ好日」と喜んで暮らせるのだとも解釈できますが、そのくらいのことなら、何も雲門大師に言うてもらわねばならぬことはありません。
 台風で屋根は吹っとび、浸水は床上まで越し、子供は流された、主人は出たまま帰らない、電灯は幾日もつかない、米はない、水はない、そんな場合でも、 「日々是れ好日」といただけるでしょうか。おかげさまでと感謝されましょうか。心の持ちようで解決できましょうか。雲門大師ほどの大徳の言われたのは、そ のような極端な、万一の不幸をも計算に入れての「日々是れ好日」であるはずです。
 良寛さんが、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく(そうろう)、 死ぬ時節には死ぬがよく候」と言った境地こそ、この心境でありましょう。どんな災難が湧き起こっても素直に受け入れられる心、たとい大病になっても、うろ うろせずに静かに病人になっておれる心、殺すと言われても笑って手が合わせられる心、そんな心が自覚できませんと、軽々しく「日々是れ好日」などと大口は 叩かれません。
 それは心が絶対無にならなければできぬことであります。(めい)歴々(れきれき)()堂々(どうどう)、縦には三世を貫き、横には十方に通貫する絶対無の心を、「摩訶(まか)」と申します。「摩訶般若」の「摩訶」であります。翻訳して「大」と申します。


以下は曹洞宗 正木山 西光寺のサイト より引用です。
http://www.saikoji.net/houwa/houwa0606.html

日日是好日(にちにちこれこうにち) 今回はこの有名な禅語をとりあげてみました。このことばの書かれた掛け軸などを床の間や茶室などでよく見かけます。この意味するところは、日というものに良し悪しは無いということです。毎日毎日が好い日であるということです

実に明解なことばですね。
しかし一見明解なものほど奥が深いのですよ。
「日」によって特段違いはありませんがまずよく言われるのがお天気との関係です。
大抵の場合晴れて「好い日」とされています。
確かに折角予定された行事が雨天のために延期や中止になることはよくあることです。
折角の予定が狂ったり、何をするにしても不便を感じますので、「雨天は好くない日」と言うのもわかります。
しかし、ここでちょっと気になることがあります。
「あなたの普段の行いが善いから今日は晴れて好い日になりましたね」とかよく言ったりしますね。
社交辞令や相手の徳を持ち上げたりする気持ちから出る言葉です。
確かに個人的な気安い会話の中でのことばとしてはご愛嬌でよろしいのですが、大衆を面前にした公的な挨拶などの場合いささか疑問に思うのです。
それは、その日たまたま晴れたからといっても、問題はそのことばを聞いた人の中には過去において大切な行事を大雨に見舞われたという人もきっといる筈なのです。
その人にとっては「あのときの大雨はあなたのせいだ」と間接的に言われているようなものです。
確かにどんな行事を行うにしても一般的にも晴れた方が喜ばれますね。
それは大抵の場合都合が良いからです。
でも都合は人によってそれぞれ違いますので晴れて喜ぶ人もいれば、中には雨で喜ぶ人もいるということを知るべきです。
お天気はその人のその日の都合次第で好い日にもなり悪い日にもなるということです。
余談ですが、よく「晴れ男」とか「雨男」とか言いますが、一生の内での確率はほぼ50パーセントだそうです。
また、もし毎日毎日お天道さまが出ていたら砂漠になってしまいますし、また、毎日毎日雨ばっかりだったら物は腐るし土砂崩れや洪水などの災害も起きてきます。
雨の日、晴れの日、風の日などがあってバランスが保たれているのです。
地球は自分の環境のバランスを保つために気候や天候を変えているのです。
地球も生きているのですから。
要は、晴れて好し。雨で好し。風で好し。
その日その日はそれ自体完璧な現状だということです。
天候状態に優劣はありません。
因果の法則に従ってただただ変化しているだけのことです。
それにしても最近の地球は環境悪化のせいか異常気象が見られるようです。
とくに世界的に砂漠化が進んでいるとか。
実際日本でも平均年間降雨率も年々下がってきているそうです。
雨も恵みの雨だと思うとありがたく感じられるものです。
その「天候」は目に見えるものですが、目に見えないもので「その日」を区別するものもあります。
まず日本には「六曜」(ろくよう)というものがあります。
その日の吉凶を表すものとされています。
「今日は仏滅だから」とか「明日は大安だから」などと言って行事の判断にしたりします。
とくに仏教に関するものに仏滅と友引がありますが、実はこのふたつとも元々は仏教に関係なかったそうです。
「物滅」であったものが「仏滅」になり、また友引は「吉と凶が勝負し共に引き分け」といった意味だそうです。
今日では「友引」は「あの世に友を引く」というような意味合いから友引には葬儀は致しません。
元の意味がどうであれそれが現在の社会通念となってしまっている以上、それに従うことが文化なのです。
その「文化」の基になっているのが「暦」です。
その暦に従ってすべての年中行事が決まります。
お正月、節分、立春、ひなまつり、端午、立夏、入梅、七夕、お盆、立秋、十五夜、彼岸、七五三などなど、あげれば切りがありません。
それらは生活の指針として無くてはならないものです。
人が生活の中に「けじめの意味づけ」として編み出した知恵なのです。
暦だけではありません。
1日24時間の「時間」も同じように「けじめの意味づけ」のために人が発明したものです。
発見ではありません発明です。念のため。
ちょっと想像してみてください。
仮にあなたが現在何月の何日の何時であるのか認識できない状態のまま何日も過ごすとしたらどうなると思いますか。
意識のない昏睡の状態でない限り多分あなたは情緒不安になり、それが長時間続けばストレスとなり精神に異変を来すかもしれません。
季節や雑節、年中行事や月日、時間の認識で日常生活に「けじめの意味づけ」がなされ、気持ちが安定するのです。
これを「文化的生活」といいます。
犬や猫に季節や曜日、時間の認識はありません。
それは彼らには「文化」が無いからです。
(しかしこのごろ中には人間様と同じような贅沢な「文化的生活」をしている犬や猫が沢山います。将来「文化」を身につけ時間を気にする犬や猫が出てくるかもしれませんね・・・冗談ですけど)
さて、ここで私が何が言いたいかと申しますと、人はすべてに於いてさまざまな「尺度」の中で生きているということです。
先にあげた暦も行事も時間も全て文化的生活を送るための「尺度」なのです。
人は生活の全てに於いてさまざまな尺度に従い尺度を通して生活にけじめをつけ、気持ちをコントロールすることで「安心」できるのです。
尺度がなければ人間生活は成り立たないと云ってもよいでしょう。
尺度こそ人類が合理的に生きていくために編み出した最高の叡智であり「文化」なのです。
そして次に私が言いたいことは、実はこの「尺度」こそ要注意だということです。
尺度とはすべて人が便宜上作った「発明品」だからです。
発見ではなく発明です。(ここでも念のため) 春夏秋冬の季節も、元旦、お盆、大晦日などの雑節も、大安、仏滅、先勝などの「六曜」も、月曜、火曜、水曜などの曜日もすべて「尺度」です。
「何時何分」という時間も尺度です。
その尺度の「本質」をしっかり理解することが大事なのです。
その尺度に実態は無いのです。有るのは「今」だけです。
これを「而今」(にこん)と言います。
どんな日であれどんな時間であれ、有るのは「今」だけでその本質は「虚空」なのです。






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